マルサ(査察)は、今-号外-東京国税局査察部、証拠捏造と恐喝・詐欺の現場から

 ビジネスにおけるマナーに関していえば、文章の書き方(商業文)は松江商業高校3年のときに叩き込まれたし、マナーのイロハは、名古屋で教わった。序列を重んじた訪問先への入り方、部屋への入り方、部屋での座り位置、出されたお茶の飲み方、タクシーの中での座り位置、名刺の渡し方と受けとり方、世間知らずの私は自分勝手に動いて、ことごとく大目玉を食った。

 会計士の修業時代の私に、ビジネスマンとしての最低限のマナーと、会計士の基本をマンツーマンで教えて下さったのは、公認会計士神田博彰氏であった。神田氏の眼力は鋭く、カミソリのような切れ味で数字と法文の奥に潜む真実を見抜く力は、会計士見習い(会計士補)の私には驚異であった。
 神田氏の謦咳に接してから40年の歳月が過ぎた。試行錯誤の末に、真実を抉摘(けってき)する会計工学を完成させた私に対して、冥府の神田氏はどのように評価して下さるのであろうか。

 今は亡き師を追憶し、30年前の記事を転載する。

明窓閑話(51)-花は摘むがよろしい

公認会計士 山根治

 久しぶりに素晴らしい言葉に出会った。放送タレントの三国一朗氏が紹介しているものだ(『新女盛りの条件』日本経済新聞、昭和56年1月12日号)。
 恋に悩む青年が決断に迷ったあげく、人生の表裏に通じた老人に教えをこうた。進むべきか止まるべきか、その迷いに指針を示してくれと迫った。青年の綿々たる訴えを聴き終わると、やおら老人は口を開いて言った。『女性は人生の花である。花は摘むがよろしい』と。
 三国氏によれば、三十年程前のアメリカ映画の中でのセリフだという。含蓄に富んだ素晴らしいものだ。

 今から何年前になるであろうか。私は年老いた一人の弁護士に出会い、一夕、酒を酌み交わしたことがあった。下館市在住の老師は、東京帝国大学出身のリベラリストであった。会計士試験を受ける前のことであり、人生の岐路に立って思い悩んでいた時のことだ。
 人生如何に生くべきかというストレートな私の問いに対して、老師はただ一言、『一期一会!』と答えて次のような説明を加えた。
「キミとボクとは、今この瞬間この場所で酒を飲み話をしているんだが、このことが一体どのような意味を持っているか考えてみようではないか。
 地球上には現在、数十億の人間が生きている。アメリカ人もいればイギリス人もいる。極寒の地にはエスキモー人がおり、酷暑の地にホッテントットがいる。キミもボクもたまたま日本人として生を享け、今日ここでめぐり会ったというわけだ。
 これはキミ、すばらしいことではないかね。現在生きている人類に限っても、数十億分の一の確率であって偶然というにはあまりにも不思議なものだ。しかも人類悠久の歴史にあっては、気の遠くなるように小さな確率だ。考えてもみたまえ、百億年ほど前にはキミもボクも宇宙に浮遊するチリにすぎなかったわけだが、それが今日、人間という肉体と精神を与えられ、日本人として生かされている。これは実に神秘的であるとは思わないかね。
 たしかに、道ばたでゆきずりにチラッと顔を合わせ、名前も知らないままに一生涯再び会うことのないような人を含めて考えても、一生のうちに一人の人間が会うことのできる人の数はたかだか知れたものだ。ましてやこのようにしてお互いに名前を知り、相手をそれなりに認め合ったうえで、魂と魂とをぶつけ合うなんていうのはそれこそ一生のうちに数少ないものというべきだろうね。
 人とのめぐり会いをこのようなものとして把えるとすれば、一日一日どのように生きていくべきか、おのずと答えがでようというものだ。
 つまり、めぐり会う縁、そのうえに、どのように元気な人であろうとも一瞬先には死が待っている可能性がある現実、この二つを考え合わせると、その時その時を大切にするしかないんだよ。つねにこの出会いがこの世の最後になるかもしれないと考えれば、あだやおろそかな気持ちで人に接することができなくなる。
 このように、仮にどんなに親しい人と接する場合でも、一回一回をつねに一生のうちの最後のものだと思って大切にしていこうとする考え方、これが『一期一会』ということなんだ。」

 『花は摘むがよろしい』というのも、摘んで散らしたり枯らしたりする意ではない。摘むことによっておのが人生のより深い部分に組み入れ、人生のかがやきをいっそう鮮やかなものとせよという意であろう。一期一会の教えと軌を一にするものだ。
 人生には出会いがあり、出会いがあれば必ず別れがある。
 昨年の暮れ、一人の魂がこの世を去った。神田博彰、公認会計士、享年47才。肺ガンであった。
 東大経済学部を出た氏は、私に公認会計士の何たるかを教えて下さった。厳しく叱られながら、歯をくいしばってついていった頃のことが脳裡を去来する。
 47才といえば、見方によれば短い一生であった。氏としては死んでも死にきれない思いであったに違いない。
 だがしかし、氏の肉体はガンに朽ちたとしても、氏の魂は多くの教えと共に私の中に宿り、私の生命が燃え尽きるまで私と共に歩むであろう。

(松江市灘町)

山陰経済ウィークリー、昭和56年1月27日号より

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