職人としての会計士-1
- 2010.10.19
- 山根治blog
私が会計士になろうと思ったのは26歳の時であった。大学院を中退し、茨城の妻の実家に居候していた私は、家庭教師をしたり、翻訳の下請けをしたりして糊口をしのいでいた。
大学の寮友である岸澤修君が訪ねてきたのは、私が茨城の田舎町でウツウツとした日々を送っていたそのような時期である。彼は大学を卒業すると郷里に帰り、金沢市の会計事務所で働いていた。事務所の後継者として迎えられていたのである。
岸澤君は大学では経済学部で経済地理を学んだ。出身校は金沢大学附属高校、普通高校生の常として当然のことながら簿記のボの字も知らない。会計学や原価計算、あるいは商法(現在の会社法)も同様であり、大学でも習んでいない。
そのような彼が必要に迫られて会計士試験を受けることになった。会計事務所を継ぐためには、どうしても資格がいるからだ。彼は会計事務所の仕事をしながら受験勉強をし、会計士2次試験に合格した。一年余りかかったという。
私が岸澤君と一緒に学んだ当時の一橋大学は、アカデミックな雰囲気に満ちており、いわば学問としての学問を重んじていた。従って、実用的なもの、たとえば資格を取得するための勉強など考える余地がなかった。とりわけ、学生寮で生活していた私達は、そのような勉強を一段下に位置するものと考え、軽蔑さえしていた。二度とない青春の大切な時期を、たかが資格試験のために浪費することなど、愚かなことであるとさえ考えていたのである。同級生の中には、公務員試験、外交官試験、司法試験などを目指していた者がいたが、隠れるようにこっそりと勉強していたようである。
正直なところ、岸澤君が来訪するまで会計士については何も知らなかった。自らの職業として想定さえしていなかったのである。
ところが信頼する友人が会計士(当時会計士補)として現われた。
私は大学卒業前の24歳の時に結婚し、当時すでに2人の子供がいた。妻の実家でお世話になりながら、細々とアルバイトで食いつないでいる状態であり、まともな生活をするために何とか現状打開をしなければならない状況に置かれていた。
岸澤君の来訪によって初めて会計士の存在を知り、生活していく手段として真剣に考えることになった。敬愛する親友が選んだ職業である。おかしなものではないはずだ。このように考えた私は、ためらうことなく、岸澤君の後を追うことにした。
彼もまた、人生の方向性を模索しており、心の整理をするために私に会いにきたようであった。ほどなく彼は金沢の会計事務所を辞し、名古屋に移った。名古屋の監査法人で監査一筋の道を歩み、昨年現役を引退した。
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ここで一句。
(衣食足りて礼節を知る、利権外れて無頼を知る。)
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