粉飾された2兆円 -4
- 2008.05.13
- 山根治blog
このように、私達松江市民の多くは、宍道湖(しんじこ)と中海という2つの汽水湖を有機的につないで、いわば扇の要(かなめ)となり、水郷松江にとって大きな役割を果している大橋川に対して、限りない愛着を抱いてきました。
国交省は、そのような大橋川を単に治水という目的のために、地域住民の意向を無視して勝手にいじくり回そうとしているだけではありません。あろうことか、川の名の由来ともなっている「松江大橋」(私達は“大橋”と呼んでいます)を壊し、川幅を拡げて新しく付け替えるというのです。島根県にとって未曾有といわれた昭和47年の大洪水のときでも、あるいは一昨年の洪水のときでもビクともしなかった橋です。補修と補強をしていけばまだまだ十分活用できるのです。それを壊してしまうというものですから、私のように生れてからこのかた60年以上もこの橋の近くで生活し、この橋にすっかりなじんでいる者にとっては、家の中にズカズカと土足で踏み込まれたような思いです。
<大橋南岸よりの眺望>
松江大橋。この橋は、昔から幾多の変遷を経て、現在に至っています。今の橋は、昭和12年に架け替えられたものですから、今年でちょうど70年、人間でいえば古希(こき)といったところです。
橋の北詰(きたづめ、北のたもとのことです)には、この橋を誇らしく説明する石碑が据(す)えられています。
橋の竣工は昭和12年10月18日ですが、その一年程前に一人の若い土木技師が橋脚の基礎工事の現場で事故に遭って命を落としています。
深田清、享年三十一歳。福岡県打尾町に生まれ、第三高等学校を経て京都帝国大学工学部に学ぶ。卒業後、島根県に奉職、県下の道路橋梁の計画設計に参与する。
松江市民は深田技師の死を深くいたみ、京都大学の有志と白潟本町が中心になってその霊は手厚く弔(とむら)われ、一尺(約30センチ)四方の銅版に技師の肖像をうつして一枚を橋脚の下に埋め、昭和の尊い人柱(ひとばしら)としたのです。
児玉知事の弔辞は、次のような言葉で結ばれています。
尚、以上の松江大橋についての記述は、主に「松江八百八町町内物語、白潟の巻」によっています。
松江大橋の南詰には、『源助柱記念碑』と並んで『深田技師殉難記念碑』が建立されており、
と記されています。共に昭和14年に建てられたもので、松江大橋を華麗に装(よそお)っている岡山県産の桜御影石(さくらみかげいし)と同じ石材が用いられています。2つの石碑の真中には、白潟本町大橋地蔵講によって、供花、灯明の場が設けられており、生花の絶えることがありません。
<左:源助柱記念碑と深田技師殉難記念碑> <右:大橋の中央展望部より北岸を望む>
私はこの橋を一日のうちに何回か往復するのですが、橋の鎮(しづ)め(守り)として犠牲になった二人の尊い御霊(みたま)に思いをいたし、身の引き締まるような厳粛な気持ちになるのです。私達松江市民の祈りの橋といってもいいでしょう。
祈りについて言えば、松江をこよなく愛した異国の文人、ラフカディオ・ハーン(日本に帰化して小泉八雲)が、明治23年当時の松江大橋のたもとで毎朝祈りをささげる多くの人々について語っています。
ハーンが描く橋のたもとで行われた朝の清めと祈りの風習は、現在は廃(すた)れていますが、橋の鎮めとして犠牲になった足軽源助と職に殉じた深田技師の御霊(みたま)に向けた、感謝をこめた松江市民の祈りは絶えることがありません。
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ここで一句。
(いったい何しに来たのやら。)
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