粉飾された2兆円 -4

 このように、私達松江市民の多くは、宍道湖(しんじこ)と中海という2つの汽水湖を有機的につないで、いわば扇の要(かなめ)となり、水郷松江にとって大きな役割を果している大橋川に対して、限りない愛着を抱いてきました。

 国交省は、そのような大橋川を単に治水という目的のために、地域住民の意向を無視して勝手にいじくり回そうとしているだけではありません。あろうことか、川の名の由来ともなっている「松江大橋」(私達は“大橋”と呼んでいます)を壊し、川幅を拡げて新しく付け替えるというのです。島根県にとって未曾有といわれた昭和47年の大洪水のときでも、あるいは一昨年の洪水のときでもビクともしなかった橋です。補修と補強をしていけばまだまだ十分活用できるのです。それを壊してしまうというものですから、私のように生れてからこのかた60年以上もこの橋の近くで生活し、この橋にすっかりなじんでいる者にとっては、家の中にズカズカと土足で踏み込まれたような思いです。



大橋南岸よりの眺望 大橋南岸よりの眺望

<大橋南岸よりの眺望>

 松江大橋。この橋は、昔から幾多の変遷を経て、現在に至っています。今の橋は、昭和12年に架け替えられたものですから、今年でちょうど70年、人間でいえば古希(こき)といったところです。
 橋の北詰(きたづめ、北のたもとのことです)には、この橋を誇らしく説明する石碑が据(す)えられています。

“松江は三百年間、この橋一本で北と南を結んできた。17世紀初頭に城とともにできた橋は、以来難工事を繰り返す。複雑な潮流と軟弱な地盤、度たびの洪水、ようやく橋脚が岩盤まで達したのは、昭和初年のこの橋が初めてである。長い願望と努力の英知をいま眼前に見る。”(昭和20年4月15日筆録)

 橋の竣工は昭和12年10月18日ですが、その一年程前に一人の若い土木技師が橋脚の基礎工事の現場で事故に遭って命を落としています。

 深田清、享年三十一歳。福岡県打尾町に生まれ、第三高等学校を経て京都帝国大学工学部に学ぶ。卒業後、島根県に奉職、県下の道路橋梁の計画設計に参与する。

“嗚呼(ああ)昭和十一年九月十二日島根県土木道路技師深田清君、松江大橋改架工事監督中突如不慮の災厄(さいやく)に遭遇し遂に殉職せらる。……就中(なかんづく)松江大橋は君の全知全能を傾けてその薀蓄(うんちく)せる学識と貴き体験に依りて之が指導監督の完璧を期したり。”(児玉九一島根県知事の弔辞より)

 松江市民は深田技師の死を深くいたみ、京都大学の有志と白潟本町が中心になってその霊は手厚く弔(とむら)われ、一尺(約30センチ)四方の銅版に技師の肖像をうつして一枚を橋脚の下に埋め、昭和の尊い人柱(ひとばしら)としたのです。
 児玉知事の弔辞は、次のような言葉で結ばれています。

“君は今その天職に殉じて貴き犠牲の礎石ともなり、彼の源助柱の哀話(江戸時代に、源助(げんすけ)という名の足軽が人柱として生きたまま橋脚の下に埋められたことです)と共に永く世人の胸臆(きょうおく。胸の奥深いところ)に存して千秋(せんしゅう)に朽ちざるべし。”

 尚、以上の松江大橋についての記述は、主に「松江八百八町町内物語、白潟の巻」によっています。
 松江大橋の南詰には、『源助柱記念碑』と並んで『深田技師殉難記念碑』が建立されており、

“とこしへに 名橋の 志づめ(鎮め)となる”

と記されています。共に昭和14年に建てられたもので、松江大橋を華麗に装(よそお)っている岡山県産の桜御影石(さくらみかげいし)と同じ石材が用いられています。2つの石碑の真中には、白潟本町大橋地蔵講によって、供花、灯明の場が設けられており、生花の絶えることがありません。

源助記念碑 大橋南岸よりの眺望
<左:源助柱記念碑と深田技師殉難記念碑> <右:大橋の中央展望部より北岸を望む>

 私はこの橋を一日のうちに何回か往復するのですが、橋の鎮(しづ)め(守り)として犠牲になった二人の尊い御霊(みたま)に思いをいたし、身の引き締まるような厳粛な気持ちになるのです。私達松江市民の祈りの橋といってもいいでしょう。
 祈りについて言えば、松江をこよなく愛した異国の文人、ラフカディオ・ハーン(日本に帰化して小泉八雲)が、明治23年当時の松江大橋のたもとで毎朝祈りをささげる多くの人々について語っています。

『橋の南詰の船着き場の石段を降りてきて、川の水で手と顔を洗い、口をすすぎ、東に昇ってくるお日様(天照大神のことです)に向って、拍手(かしわで)を4回打ち、西に向って杵築の大社(きづきのおおやしろ。出雲大社のことです)を拝む。八百万(やおよろず。数がきわめて多いことです)の神々の御名(みな)を称えて思い思いの方角に向って祈る。パンパンと鳴るその音は、まるで一続きの一斉射撃かと思われるほどに激しさを増す。中には、西に向って薬師如来の寺である一畑様(一畑薬師のことです)に向って手のひらを静かにすり合せる人もいる。』(“知られぬ日本の面影”より要約)

 ハーンが描く橋のたもとで行われた朝の清めと祈りの風習は、現在は廃(すた)れていますが、橋の鎮めとして犠牲になった足軽源助と職に殉じた深田技師の御霊(みたま)に向けた、感謝をこめた松江市民の祈りは絶えることがありません。

(この項つづく)

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 ここで一句。

“不覚にも 回るベッドで 酔っちまう” -久喜、青毛のアン。

(毎日新聞、平成20年4月18日号より)

(いったい何しに来たのやら。)

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